vol.3 早春の湖

早春の湖 車を降りて釣り場に歩き出すと朝もやの冷たい風が鼻をぬけ咽喉をひんやりと心地よく濡らす。友とたわいもない会話を交わしながら歩くうちに微かに背中に汗をかき頬が赤く染まってくるのを感じた。これから始まる夢を幻を想像を可能の限り現実になることを空想する時間である。芽吹きが近いクロモジのえだ先にきらっと光る朝露の一滴を人差し指に乗せ、なんとなく乾いた唇にもって行く。十四・五分して少し息ぎれしたころに入り江に着くと湖面はかすかに風波が立ちもやが立ちこめていた。 私はティペットの先にフライを結びながら水面を凝視し、大きく深呼吸した。はるか先で一匹の魚が全身を飛び出してジャンプしている。ゆっくりと膝まで水に入りそっと水をにぎるとまだ水温は低く魚も動くのが辛そうな気がした。「今日はあまり重くない針とラインでゆっくりリトリーブするしかないな。」こんな日はフライの消耗が激しくて夕べ巻いた十本のフライのほとんどを無くす事がある。使用していない桟橋のすぐ横、水中に岩盤が突き出ているそのポイントにたってキャストをはじめて一投目、1・2・3 … 何秒が過ぎて、ラインがゆっくりと沈んで行く。底を引きずるようにフライを引いてくると、手前のかけ上がりで何かがにフライに触れるのを感じた。そこでなお遅くゆっくりと引いてみる重い者が竿先をぐっとしずめる。すかさず大きくゆっくりあわせる。一瞬根がかりのように思ったやつは一気に沖へ走りジャンプする。そしてまた走るを何度か繰り返し視野に入ったやつは側線の美しいレインボウのジャックだった。フックをはずし尾を持ち、腹の下を軽く左手でささえ魚の快復を待つ。呼吸が整い大きく体をくねらせて静かに深みに沈んで行った。私はグッバイと小さくつぶやいた。 霧の中でハーリングをしているエンジンの音だけが聞こえる魚が掛かったのか、かんだかいリールの音がする。霧が少しずつ晴れ日差しが雲の合間から額をあたためる。今まで休んでいた観光船が何世紀前かの自動オルガンに似た音色を張り上げて通り過ぎてゆく。なんだか体が温かくなり釣れそうな感じがしてきた。 何処からかヤマガラの声がツツピー.ツツピーと聞こえてくる。時おりえごの木の実をくちばしで叩く音がコンコンコン…・響き渡る。シジュウカラとコゲラの混群があわただしく枝から枝へと通り過ぎて行った。 小さなライズが時折忘れたころにある。釣友がドライフライを付けてじっとお地蔵さんのように動かず待っているがいっこうに釣れるけはいはない。ライズの虫を確認しようと足元の水面を見つめる。小さな蝉に似た陸棲昆虫がもがきながら流れていった。また一匹二匹三匹と茶色をした1センチにも満たない、つの虫の仲間のようだ。どうやらこいつを食っているようだ。しかしその日には釣友の誰一人この虫に似たフライを持ち合わせていなかった. 後ろでカサカサ物音がした。崩れかかったまま(斜面)を黄金色したオスのイタチが駆け上っていった。そと近づいて見ると、にげ去ったあとでイタチは見当たらなかった。まま下の乾いた土にいくつものアリ地獄の穴があいていた。その中の大きそうな一つに、いたづら心で私はフライボクスのなかからブラック・アントをつまんで落としてみた。アリ地獄はすかさず砂をかけ巣の中へブラックアントを引きづりこんだがすぐに偽物と判ったのか外に放り出したのである。私はブラックアントを拾い空にかざして見たのち息を吹きかけ砂をおとしフライボックスに戻し、ゆくりと荷物の近くまで来て腰を下ろした。デイバックから鱒の燻製を取り出しマドンナの小ビンをラッパのみしごろと横になるとポカポカよう気とワインのせいで記憶が遠ざかり心地よく失っていった。 周囲のざわめきで目がさめると何やら仲間に大物のが掛かりさんざやり取りしているようだ。その様子を見ながら大きく両手を伸ばしのびをして立ち上がりランディング中の仲間を覗く、そいつは50オーバーのブラウンであった。気を取り戻しロッドを持ち湖に入って行き一時間ほどキャストをしたが一度もあたりは無かった。 その日は最初の一投目に型の良いレインボウが釣れたきり、その後一度もあたりすら無かったのである。そう言えば何年か前のことNZに行った時も、その日の最初の一投目に型の良いブラウンが釣れその後一日中ぜんぜんだめな日があった事を思い出した。釣友と「こうゆう事も良くある事だ!」で終わりにした。 * クロモジ(潅木の一種で高級楊枝の材料でもあり幹は良い香りがする。) * フライ(毛鉤) * ティペット(つり針を直接付ける細い釣り糸) * ジャック(オスの魚) * ハーリング(フライを使ったトローリング) * ヤマガラ(小鳥で良くなれる。昔は路店でおみくじを持ってこさせる芸を仕込んでいた。 木の実を好んで食べる。) * えごの木(落葉広葉樹で白い小さな花が咲き実は硬いからをつけている。ブナや ハシバミに少しに がみが付いた香ばしいナッツの味がする。) * シジュウカラ(白とくろをベースに薄い青のはいった小鳥で首に黒いネクタイが特長) * こげら(きつつきの仲間で一番小さい。良く他種類の小鳥の群れと一緒に行動する) *ドライフライ(水面に浮かせて水中から飛びつく魚を釣る毛鉤)