渓吉釣り日記(尺イワナの棲みか)

尺イワナの棲家

木々の葉が茂り日増しに山々が濃緑に染まるころ、渓流では水棲昆虫の羽化が最も盛んになる。この時期、羽化した水棲混虫を求めて渓流魚が活発に捕食をはじめる。そしてひと段落つくと花を咲かせていた柳の木の花は綿毛に変わり、風に吹かれて雪のように散り始めます。柳の木に付く蝶の幼虫が蛹になり羽化して蝶が優雅に空を舞います。蛹になる前に何らかの切掛けで流れに落ちた毛虫を大岩魚が捕食するのだ。時期になると渓吉は毎年幾度か顔を合わす岩魚がいた。彼は一件誰もが見逃す流れのアジトのような場所に棲んでいた。それは大きな柳の根元にある小さな壺のであった。その壺は要塞のごとく数々の小枝や流木で釣り人の侵入を拒んでいた。見た目より奥深く、静かに暮す尺岩魚にとって申し分ない環境であった。また彼の棲家から捕食場所までは極わずかな距離で済み、そこには多くの食物がたっぷりと流れて来た。30cmを超える身体の欲求を満たすのに充分な食糧だった。渓吉は年に1・2度、彼のヌメとした身体に直接手を触れる事があった。全身黄金色の身体はあたかも苔生しているかのようであり、顔には大水の時に出来たと思われる古傷が何本か付いていた。ぴんと張った胸鰭は身体の割に大きく尾鰭は産卵時のなごりであろうか下部に擦り傷があった。渓吉は必ずリリースの際に、老いて筋力を失った柔らかい張りのない腹を手のひらで支え「いつまでも元気にしていろよ!」と語りかけて緩やかな流れでそっと解放すのであった。
2・3年続いた交流であったが岩魚の寿命を考えれば彼と会えるのはすでに難しい事だと承知している渓吉だが次の年も次の年も彼に会いに行くのを楽しみに通い続けた。

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